消尽の日記

中身も外見もまぁ覇気がない

「8 1/2」5/21の日記

 

 

追記

2021/5/22映画の感想部分の加筆修正と脚注の追加 

 

5/21

 

コーヒーを淹れた。残ったラオスエチオピアを1対1で混ぜてマイブレンドを作った。

 

豆量22.4g湯温90℃抽出量300ml中挽き(Coresの目盛り6)抽出時間3分。

 

ブレンドは本当にコーヒー力(ちから)が試されるものなんだなと身をもって経験した。ただ混ぜるだけでは味の調和は完成されず、個々がそこにあるだけの煩雑とした味わいになる。最初にラオスエチオピアの風味が混ざったものが油のうま味と一緒に来て酸と渋みが通って後味に雑味が残る。熱い状態だと酸が抑えられて良い感じに感じられたけど冷えるとフレーバー同士が喧嘩してまとまりのない味になってしまった。ブレンドにはブレンドした人のカップに対する考えが反映されるものということを改めて感じたので、今度自家焙煎のお店に行ったときはブレンドも積極的に味わってみようと思った。どういう考えをもって豆を選びカップに落としたのかを感じ取れるようになりたい。

 

 

 

 

これが今日のすべて。ここからは8 1/2についてしか書かない。

あらすじ

一流の映画監督グイドは新作の撮影を目前として行き詰まり、温泉地に療養しに行く。だが、湯治場に来てもグイドは愛人のカルラや、冷え切った関係の妻、そして仕事のストレスから逃れることはできない。次第に追い詰められた彼の脳裏には、いつしか幼少期の思い出や未だ見ぬ美少女の幻影が現れ始め…。

(Prime Video  8 1/2概要より引用)

 

 

物語は映画監督(グイド)がひたすら追い詰められるというのが大筋になっていて、そこに回想と妄想が重ねられており映画の構成自体が混乱を極めている。初見で体系だって理解するのは難しいと思う。それに当時のイタリアにおけるカトリックの宗教規範について知識とかも必要ではないけどあると話を理解しやすいっぽい。

 

グイドは物語の序盤からもうかなり追い詰められている。グイドは撮りたい映画の全体像が全く何にも思いついてないので、役者がどんな役なのかを聞きたがったり脚本家やプロデューサーが映画について問いただそうとすると途端に話をごまかしてうやむやにしようとする。しかもそこに浮気相手も来てどんどん話がこんがらがっていく。映画の構成とともにグイドの思考も混乱していくのでグイドの神経は終始摩耗しまくっている。

 

回想を挟みつつずっとこんな調子で映画製作から逃げ続けるので観てるこっち側もめっちゃ焦る。期限が決まっていて、もう手遅れ間近なのに何も手がつかない。せかしまくる製作部門や役者やプロデューサーをしどろもどろになりながら躱し続ける。何も進捗がないまま時間が過ぎる。しかも途中からルイザ(グイドの妻)が湯治場に来るし妻が浮気相手と鉢合わせる。妻も周りも態度がどんどん冷たくなっていく。こんな感じでずっと首が回らない状態のドン詰まりを2時間くらいやってるんだけど、自分は途中でつらくなって何回か止めながら見た。

 

 

だけど自分が最も注目した点はそこではなかった。グイドとニャキ子の共通点という部分に注目した。

 

ニャキ子とは…理原ひなりさん曰く社会の女のひと。下記はニャキ子にまつわるエピソードについて書いた自分の文章。

 

ここからはほぼニャキ子についての話。そもそもこの映画を観ようと思ったのはニャキ子がきっかけ。

 

ニャキ子とグイドには多数の共通点があり、理原さんに贈った言葉の意味には想像以上の質感と厚みがあったんだと感じた。まず、共通点について。

 

このグイドという男は本当にどうしようもないやつで浮気をするわ二枚舌でルイザにも浮気相手にも上辺だけの言葉をかけるわでかなりろくでもない。

 

ニャキ子も5股しており、すぐ好きだとかなんだとか言って女をたぶらかす(理原さん談)

 

そしてこの男は幼少期を厳格なカトリックの学校で過ごしており性を抑圧されて過ごしてきており、反動でろくでもない妄執(ハーレムを作ってチヤホヤされたいという妄想)にとらわれている。

 

ニャキ子も家が厳格で抑圧されて育ってきたため、反動で今現在はだらしない性格になった(本人談)

 

 

もしかしてだけど、ニャキ子にとってこの映画は心の根幹にある物凄く大切な映画なんじゃないかと思ってしまう。最初にこの映画を見つけたとき一体どういう風に思い、自分を重ねたのか。そういったことに想いを馳せた。

 

また、映画終盤では「カメラ・テスト」と称してなんの構想もないまま無理矢理撮影したストーリーのないちぐはぐのフィルムをプロデューサーやルイザと一緒に見るんだけど、そのフィルムにはルイザがモチーフの「夫婦喧嘩で疲れ果てた妻」が描写されていて、つまりルイザ側から見ると「今の夫と自分との冷え切った関係」や「夫に浮気されていること」を知らない間に映画の材料として使われており、それを見せられているということになる。自分のデリケートな部分を勝手に他人に見せびらかされたことで完全にグイドに失望し、うんざりだわ!と吐き捨てて帰ってしまうという「破滅」が描かれている。

 

なぜそんなひどい別れを描写している映画の、しかもこの後グイドがルイザに向かって言うセリフ(後述)を贈ったのか。

 

 

ここからはグイドがルイザに言った「È una festa la vita, viviamola insieme!」をニャキ子が理原さんに贈ったことについて。

 

ニャキ子が理原さんに贈った「È una festa la vita, viviamola insieme!」は日本語訳すると「人生は祭りだ、共に生きよう」になる。この言葉だけを見ると祝福と前向きな印象が強い言葉だけど、前後のセリフを拾うと少し捻られた彼女らしい言葉として肉付けされているような印象に代わる。前後には以下の言葉が入る。

 

「女性たちよ許してくれ やっと分かったのだ」

 

「君たちを受け入れ 愛するのは自然なことだ」

 

「ルイザ 自由になった気がする」

 

「全てが善良で有意義で真実だ」

 

「説明したいができない」

 

「全てが元に戻り 全てが混乱する」

 

「この混乱こそが私なのだ」

 

「夢ではなく現実だ もう真実を言うのは怖くない」

 

「何を求めているかも言える 生きてる気がする」

 

「恥を感じずに君の目を見られる」

 

「人生は祭りだ 共に生きよう」*1

 

「言えるのはこれだけだ」

 

「理解しあうために今の僕を受け入れてほしい」

 

 

 

ニャキ子はこれのどこまでを理原さんに託したのか、誰か教えてほしい。

 

最初に感じたものが上記のツイート。グイドの作中の印象にだいぶ引っ張られている。自分はグイドがとにかく自分勝手で、特に妻に対してはかなりひどい仕打ちをしていたのでたったの一言だけで受け入れてほしいなんて独りよがりであんまりじゃないかと思っていた。

 

ニャキ子は理原さんにありのままの自分を受け入れてほしかったんだろうか。そして理原さん以外の女性たちについても「君たちを受け入れ 愛するのは自然なこと」でこんな自分を受け入れてほしいと思っていたのか。なにもわからない。

 

このあとに続く言葉としてはルイザが

 

「確信は持てないけど」

 

「やってみるわ だから力を貸して」

 

と言ってエンディングになる。

 

ニャキ子は理原さんになんて言ってほしかったんだろう。「È una festa la vita, viviamola insieme!」のことを理原さんに問われたときにただ、映画のセリフだよとだけ言って濁してたことを思いだして胸がいっぱいになってしまった。本当のことはニャキ子にしかわからないし、それでいい気がする。

 

ただ、ニャキ子が理原さんの誕生日に自分の大切な映画であろう「8 1/2」から言葉を贈ったということは事実。あのときニャキ子は自身の特別な何かやふたりの関係の永遠を理原さんに賭けていたのかもしれない。

 

おわり

*1:プライムビデオの字幕では「人生はお祭りだ 一緒に過ごそう」になるけど自分は「人生は祭りだ 共に生きよう」の字幕のほうが好きなのでこっちにしちゃった。