消尽の日記

中身も外見もまぁ覇気がない

「賞レース」6/23の日記

 

6/23

 

 

 

起きる。

 

 

ひと騒動あった。手首にうぞうぞした感触があり、肩口の毛布と身体の隙間から手首を覗くと小さい虫が這っていた。無言で飛び起きて一旦ツイッターを開いて、それから布団をバサバサした。それでも見つかんなくて諦めかけたとき視界の端からピョロッと出てきて、よくよく見たらゴキブリではなかった。よくわかんない昆虫だった。

 

これ書いてる時に絵文字のゴキが予測変換に出てきたけど、iPhoneのゴキの絵文字は妙に生々しくて面白い。FacebookのGの絵文字は構図が珍しくて良かった。上からではなく横からの視点。

 

昨日はコンタクトを外すのもシャワーを浴びるのも忘れていたので、とりあえず外してシャワーを浴びた。

 

 

ヨガマットの上で運動。

 

バイト

 

 

 

記事を読んで思ったこと。自分は詩情に共感されやすい日々の体験や共感をまぜこんでポエジーを作ろうとする方法に頼りすぎているなと思った。その手法が良くないのではなく、そればっかりに依存して他の方法で書けてないのが良くない。

 

 

詩情で書き尽くす短歌をちゃんと読めていない(読み方がちゃんとわかってない、かつ短歌の中に宿る世界観を感度の低さのせいで享受できていない)ので見よう見まねで作ってみてはいるけど、上手くいってない。作りながら、並行して一首評や歌人解説を読んだりして実感を掴んでいきたい。

 

記事では詩情一本で作歌する若い歌人たちへの評価が行き届いていないという現状を述べ、その理由の大きな要因の一つとして新人賞の制度的な欠陥が問題であるという旨が主張されていた。

 

新人賞の審査員と賞に短歌を送る歌人たちとの間に年齢や属性、価値観等の大きい違いがあって、詩情に「生活での実感」を混ぜ込んだ手法の短歌でないと審査員に趣向を感じ取られにくく、評価もされにくいという審査の制度的な問題を批判していた。そういった新人賞の審査の問題から詩情を前面に置く作風の若い歌人たちが賞レースから漏れてしまい、正当な評価を受けられていないという指摘を行なっている。(詩情に実感を混ぜ込んだ短歌が悪いのだという主張がしたいのではなく、賞レースにおける制度上の問題に対する批判がしたいのであるということが丁寧に注意深く書かれている)

 

丸山洋渡の短歌は第三滑走路のネプリとHorrororroH(Noteに上げている連作)しか読んだことがなかったので、他のものも読んでみようと思った。

 

 

日本社会や環境やヒップホップと戦って自身のアートを勝ち取るという内容の曲。勝ち取ったその先、ということだろうと思うけどアウトロでACE COOLのFUTUREがサンプリングしてあってかなり粋だった。未来へ向かうということ。

 

 


おわり